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埋蔵金を取り扱ったメディア TBS編


平成29年(2017年)5月6日に放送された「林修の歴史ミステリー 徳川家260年最大の謎 3000億円 埋蔵金大発掘 最終決戦スペシャル」

 平成28年12月21日 TBS 林修の歴史ミステリー 徳川家260年最大の謎 隠された財宝3000億円徹底解明スペシャルの続編ということで、今回も3時間スペシャル!
 さらに第三弾として平成29年11月15日に水トク ! 「林修の歴史ミステリー」〜新説!徳川埋蔵金は東京湾の海底に!が放送されました。
 歴史ミステリーということで、基本に戻った歴史がメインですが、海 海 なぜ海 長井小川田はやめたのか?    当時、現地を訪れたときに、望月建設と地主が「畑に戻すうんぬん」と話していたので、2回目以降の調査ができなくなってしまったのでしょうか。

早丸沈没 沈没船

早丸について

 早丸のことは、古くから知られていました。
 東京湾入口であれば、早丸(久里浜沖)のほかにオネーダ号(観音崎沖)があります。
 オネーダ号の積載物は、官軍に売り渡した武器の代金なので徳川埋蔵金とはいえません。
 そのほか、千葉県犬吠埼沖に沈んだ美加保丸などが知られています。
 特に美加保丸は、榎本武明が蝦夷地に脱出するために使った船で、大量の軍需物資を積載し1868年10月5日(慶応4年8月20日)に品川沖を出港。6日後、千葉県犬吠埼沖で座礁、沈没しました。

 早丸の積載物と言われているものを追ってみたいと思います。
 番組内で紹介があったように、早丸は当初上海を目指す予定でした。
 その時の積載物が、
 *横浜オリエンタル銀行から上海支店に移送されるメキシコ銀6万ドル
 *伊予別子銅山産出のナマコ銅塊104万斤(624t)
 *奥州産青銅器物140万斤(840t)などです。
 早丸は、ロイド保険会社と契約をしていたので、ロイド保険会社がメキシコ銀6万ドルのほか64万両の保険料を支払ったとされていいます。
 ところが、明治39年に徳川家の記録や古文書とともに、早丸の記録が現れます。
 それには、江戸城の大判小判16万貫(600t)を箱詰めにし、伊達家の大判小判12万両、福井の松平家(旧結城家)が太閤秀吉から拝領した黄金の灯篭一対などが書かれており、目的は場合によっては将軍徳川慶喜を外国に亡命させる費用だといわれています。
 太閤秀吉から拝領した黄金の灯篭一対は、早丸以外に徳川埋蔵金の赤城山説にも登場する埋蔵物を示したとされる椎名文書にも登場します。
 海送と陸送の二本立ての輸送計画だったのでしょうか。

元東邦大学付属東邦中高校講師 歴史学者 山岸 良二 先生

山岸良二先生

 
 東京都品川区生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了。
 元東邦大学付属東邦中学校・高等学校教諭(〜2019)、習志野市文化財審議会会長。日本考古学協会全国理事


歴史学者 歴史学者山岸良二

過去の探索

沈没船引き上げ

【過去】
 明治12年:外国人将校のものと思われるサーベル、鉄砲の玉を引き揚げ
 大正15年:調査のみで、沈没場所の特定と三つに割れた船体を確認したとされる。
 昭和20年代:GHQが調査のみ。電波探知機で調査。金属反応あり 。
 昭和40年代:「万国海宝引揚協会」により40年、42年、44年、45年、46年に調査開始。

 天野冨太氏は、「万国海宝引揚協会」の会長
 引揚資金は、一口十万円で大衆資金を公募。配当契約付き


なまこ銅

 
 天野氏が引き揚げたとされる銅の塊
 重さ22kgの塊を21個引き揚げたそうです。
 保険会社ロイドの積み荷の記録は624トンですので、まだまだ残っていることになります。
 右の画像でも表面に菱形の筋が入っているのが見えます。
「ナマコ壁」と同じ模様なので、積み荷とされている伊予別子銅山産出のナマコ銅塊で間違いありません。


まだ沈んでる?

メキシコ銀


 ロイドの契約内容の通りだと、メキシコ銀貨6万ドルも早丸と一緒に沈んでいることになる。

 山岸先生は、早丸に御用金が積まれていたのではないかと推測しています。
 たしかにロイド保険会社がメキシコ銀6万ドルのほか64万両の保険料を支払ったとされていいますので、メキシコ銀は等価として、銅が64万両に相当としてかは疑問です。


埋蔵金 御用金

一緒に積まれた御用金

 山岸先生は、「幕府の御用金もかなりの量があったといわれている」「江戸城が最後の時にどれぐらいあったかははっきりしていない」「一つだけはっきりしている事はまったくゼロというのは有り得ない」
 普通に考えても、時の政府の蓄財が0円なんてあり得ません。いまだに幕府には金がなかったから埋蔵金はないと信じる人は、現在の日本政府借金があるんですが、F23を100機買うお金はどこから手に入れると思っているのでしょうか?
 まったくゼロだったとは言えないの御用金が、早丸に積まれていた?明治39年の記録の話でしょうかね?

 幕府の御用金がなぜ早丸に積まれていたのか。
 「小栗上野介が画策したとするなら、1か所の埋蔵するのは有り得ない」「何か所かに隠した」とコメント。
 であれば、海送(早丸)と、陸送(赤城山)となります。もしくは、どちらかがオトリだったかもしれません。
 そうなると、早丸には、江戸城の御金蔵にあったとされるの大判小判16万貫(600t)を箱詰めにし、伊達家の大判小判12万両が積まれていたことになります。

小栗 百万両

国際日本文化研究センター教授 磯田 道史 先生

磯田道史


 小栗は横浜における生糸貿易を管轄しており、運上金(税)を自由にしていて、それを味噌樽や油や酒の樽に詰めて国許(群馬県)に送金しとコメント。
 畠山清行氏の日本の埋蔵金では、二分金(一両の半分)を味噌樽に隠して国許に送ったとされています。
 
 油樽であれば、赤城山で目撃されています。
 国許に送ったのが、油樽なのか味噌樽なのか明確な記録がないので、どっちが本当の話なのかはわかりません。


千両箱


 奥羽越連藩同盟は、陸奥、出羽、越後の31藩が同盟して官軍と戦おうとした組織で、盟主:輪王寺宮、総監:仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲
 この奥羽越連藩同盟に御用金を託そうとした。と語る磯田道史先生。
 赤城山は三国街道があり、会津にも越後にも抜けられます。早丸の目的地も東北地方です。
 官軍と戦おうとしていた諸藩に軍資金を渡そうとするのは自然な流れです。


五芒星


 165は、早丸は不慮の事故により沈没。赤城山の埋蔵金は、官軍が進行するスピードが早かったのと道筋の藩が官軍に寝返ったのが 早かったため、運搬をあきらめ埋められた(遺棄)されたとみています。
 ちなみに奥羽越連藩同盟の旗印は、「五芒星」(画像左 出展:八重のふるさと福島県)です。
 画像右は、みんな大好き人工衛星から見た地図上に五芒星もしくは六芒星を描き、好き勝手な解釈を付けやすいとっても便利なカゴメです。
 カゴメが埋蔵金の隠し場所の歌なら、幕府軍の旗印を歌にしたんじゃないでしょうか。

早丸一回目 最後

 砲弾発見!
 ナレーションで早丸の砲弾の可能性が高い!
 気持ちはわかるんですが、椎の実(ドングリ)型の砲弾(長弾)は、19世紀のライフル砲からです。

中断 砲弾
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