本文へスキップ

埋蔵金発掘が趣味の人は、趣味の範囲で楽しく埋蔵金を探しています。

お問い合わせはtokugawa165@hotmail.co.jp

165が行く現地調査 会之田城編

 埋蔵金の大家である畠山清行氏は、自書「日本の埋蔵金上巻」の中で、結城氏の埋蔵金の有力候補地として会之田(あいのだ)城が有力だと書いています。
 日本の埋蔵金で、所在地は栃木県南川内村本吉田(現栃木県下野市本吉田)と書いており、しかも会之田城址をたびたび訪れていると書いています。
 また八重野充弘氏の著書「埋蔵金伝説を歩く」には、この埋蔵金発掘について詳しく書かれており、会之田城の発掘は昭和四十二年から幾度となく発掘を繰り返されているが、結果は芳しくない。」と書かれています。
 当時、八重野氏も発掘現場を見ているので、会之田城らしき場所は存在しただろうが、歴史に登場しないということは、その場所が本当に会之田城址だったのか疑問を持たざるを得ません。

 郷土資料等で会之田城址を調べても明確な場所が書かれておらず、国会図書館ですら「記録がない」としています。
 資料やネット等どこかに会之田城址の場所の記述があってもいいようなものですが、城址または館跡の記述はありません。
 この会之田城跡を掘った人、畠山清行氏を含め、そこは本当に会之田城だったのかを検証していきます。

埋蔵金の発見談

 【畠山氏の記述】 ※○数字は165の加筆
 この吉田村の会之田城址には、筆者もたびたび訪れている。
 俗に『@金山』と呼ばれるこの場所は、古くは『A的場』と称された地で、本吉田の端れ。上三川、結城、小金井の三方向のバスの分岐点の、B吉田停留所から小金井方面へ向かって小半町(約50m)ほど行った、C街道沿い。右側の千五百坪ほどの地域がそれだ。街道沿いの場所には、(割愛)この田舎には珍しい煉瓦造りの立派な門があり、低地の奥、D墓地に接して井沢修造という農家があった。これは、山口正一夫人の実家で、以前は街道沿いの、現在山口氏が住んでいる場所にあった家を金堀りのために奥へ引いたものであるが(割愛) この伊沢家のの七十九歳になる老婆は『ここで宝探しがはじまったのは、大岡様の時代jからだと、私たちも子供のころからきいています。
 どれほどの人たちが宝探しに来たか、私が知っているだけでも三人や五人ではありません。誰も、なんにも掘り出したものはなく、一時は桑畑になっていたこともありますが、それを大正何年かに、熊倉さんが掘り出したのです』と語っていた。出典:畠山清行 日本の埋蔵金

  【八重野氏の記述】
 本吉田の会之田城(E別名的場城) 出典:八重野充弘 埋蔵金伝説を歩く

 いろいろヒントが出ていますね。
 @金山 A的場 B吉田停留所から小金井方面へ向かって小半町ほど C街道沿いの右側 D墓地に接して E的場城

B吉田停留所

会之田城

B吉田停留所から小金井方面へ向かって小半町ほど
 交差点は、小金井方面からの丁字路になっているので三方向への道、吉田村市街地の端にあるので、Aの場所は確定した。


D墓地に接して

D墓地に接して
 水色の〇は墓地。金堀のために街道沿いから引っ込んだところ、墓地に接するようになった?
 おかしい。地図と文章が合致しない。墓地とは、本吉田観音堂のことでしょうか?
 会之田城は、吉田停留所から小金井方面へ向かって50mほど行った街道の右側だとすると、△の製造所近辺になるはずですが。

会之田城

道筋はだいぶ変わったが、墓地は現在でもあった。

@金山と呼ばれる場所 A的場と称される地

本吉田

 明治40年から昭和15年までなかった的場でしたが、昭和55年の地図に突如「的場」の地名が出現しました。
 A古くは「的場」と称された地が、昭和55年に突如復活。
 Bの吉田停留所から小金井方面へ向かって50mほど行った場所とは思えない距離ですが、確かに街道の右側にあります。
 金山は、古くは的場と呼ばれていたわけですから、的場に金山の痕跡を見つければ、とりあえずOKということになります。
 会之田城は「金山」という場所にあるのか。とゆうことで、2018.5.19に行ってきました。

金山道

 金山発見
 金山には、金山道という街道があったのですね。   が!ここは本吉田と全く違う場所(直線距離で約4km)
 しかし、古地図を見ても「金山」の地名はここだけです。
 周囲は田園となっていましたのでで、城跡の痕跡はありません。
 きっと金山道を行けば本吉田には行かず、すぐ途切れてしまいます。


165まとめ 誰も会之田城にたどり着いていない?

 会之田城は、吉田村本吉田の端れではなく、吉田村の端れのA的場(地名)にあった。(畠山氏のBの案内は×)
 金山は地名ではなく、築山(八重野氏)のことをを地元では「@金山」と呼んでいた可能性が高い。
 的場の東福寺のCD墓地に井沢名の墓があるので東福寺の近辺だとも推察できますが、それでも畠山氏の記述とは離れてしまいます。
 的場の近所に上坪山という地名があって、坪塚稲荷社があることから、周囲より一段高くなっていたかもしれません。
 近隣に中屋敷という地名があり、畠山氏の著書に「屋敷者」という記述があることから、半農の家臣が住んでいた土地かもしれません。
 上記のような複合的要因により、誰もが会之田城址と勘違いした可能性が非常に高いと思いました。

 「会之田城は埋蔵金でしか登場しない」と、国会図書館の回答をご紹介しましたが、いったいどこから「会之田城」が現れたのでしょうか?
 <165の推測>
 中世の館であれば土に埋もれて伝説になったでしょうが、結城晴朝の隠居場所であれば必ず記録があるはずです。
 となると「古来、この地に円墳があり、盛り土(古墳という認識は近代)には金銀が埋まっているとの伝説から金山と呼ばれるようになった。その金銀は、この辺一帯を治めた結城家のものに違いないと噂された。」「福井に転付の際に結城晴朝は渋ってなかなか行こうとしなかったのは、財産を隠すためではないか。」と噂された。
 「的場(訓練場)に家臣団も来ていたし、武家屋敷もあった。的場に通称会之田(もしくは、何らかの語源が訛って会之田)と呼ばれる何らかの施設があって、そこに埋蔵金が隠されているに違いない。」と噂された。
 いつの間にかその施設を会之田城と呼ぶようになった。と、思うのが自然ではないでしょうか。
 そうなると、本命は「的場」ということになります。


165に連絡する

shop info.店舗情報

埋蔵金のご相談、一緒に探したいなどは、お気軽に下記のメアドまでご連絡ください。(返信にお時間がかかる場合がございますので、気長にお待ちください。)

Mail tokugawa165@hotmail.co.jp