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平成31年(2019)6月6日 午後9時00分(60分)に、NHK BSプレミアム「幻解!頂上ファイル ダークサイドミステリー「ニッポン埋蔵金伝説 徳川!秀吉!信玄!謎の財宝」で、埋蔵金が放送されました。
実は、このダークサイドミステリー制作会社から、私のもとにオファーがありました。
私は学者じゃないし、著名なトレジャーハンターではないので、出演には至りませんでした。
NHKの受信料は、ちゃんと払っています!と言ったんですけどね(笑)。
昭和32年(1957)東京都中央区の銀座
東京銀座のど真ん中にある小松ストアーの建て替え工事の際、小判68枚が見つかりました。
時価総額2,000万円になります。
昭和38年(1963)東京都中央区新川
現在の日清オイリオ本社ビル建設工事中に小判が発見されました。
総数1万1,698両2分2朱 時価総額8億円です。
この発見は、鹿島屋の埋蔵金として有名です。
面白いのは、これらの発見を「埋蔵金発見」と認知されないこと。
埋蔵金とは、世間一般的に謎を解いて見つけるものらしいです。
昭和39年(1964)の有明
国際展示場や東京ビックサイトがあるあたりです。
中学生が、小判15枚 時価総額1,500万円を発見したことを皮切りにその後、ウワサを聞きつけた人がこの海岸に殺到し、延べ35枚の小判を発見しています。
サイドストーリーですが、江戸前や大森の海苔の養殖業の人々が、開発に伴う漁業権の放棄で大変儲かったとのことです。
昭和54年(1979)埼玉県深谷市
旧家・斎藤家の屋敷跡から、甕に入った元文小判489枚が発見されました。
平成14年(2002)
豪農の屋敷跡から、甕に入った小判12枚、二分金(小判の1/2)686枚、一分銀(小判の1/4)404枚、二朱金(小判の1/8)92枚、明治初期の10円金貨46枚でが発見されました。
順調に人口が減り続けている我が埼玉県蓮田市でも、平成29年(2017)に永楽通宝を含む銅銭が発見されています。
銅銭は26万枚で、一両4千文なので65両分の銅銭です。
銅銭発見時に同じ規模の穴が3つ見つかっており、2つの穴には何もなく、1つに写真の銅銭の甕が入っていたそうです。
この甕の入ってた穴も甕まで30cmのところまで掘り返された形跡があったそうで、近くで見つかった2つの穴はすでに埋蔵金は掘り出されたものと推測されました。
銅銭の埋蔵には、諸説ありますが呪術的に6箇所に埋める
と云われており、 あと3箇所残っている可能性が高いあると学芸員に伝えましたが、へ〜って言われて終了です。
銅銭であったために、埋蔵銭と呼ばれています。
豊臣家の埋蔵金4億5千万両
平成24年(2012)2月18日に77歳でお亡くなった鈴木盛司氏が挑んでいた埋蔵金です。
静岡県から数名の有志とともに多田銀山の豊臣家の埋蔵金に挑んできました。
鈴木盛司氏のその根拠になったのが、幡野三郎光照の花押が捺してある巻物
テレビでは、「清水心龍之巻」を紹介しています。
この清水心龍之巻は、発掘方法、坑道の水抜き方法が記されていると云われています。
このほかに、「幡野三郎光照遺書」「和田次郎光盛秘書」と絵図面が三巻あります。
また、同様の巻物が三重県や兵庫県から発見されています。
鈴木盛司氏もこの巻物を疑っているが、信じてしまったようで、この巻物というよりは、絵図面(写し)を信じているようでした。
巻物は、鈴木盛司氏がすべて持っていたのか?
多田銀銅山 悠久の館が、10年前に「清水心龍之巻」を入手したという。
鈴木盛司氏から譲ってもらったのだろうか?ほかの巻物はどこに行ったのか?
猪名川町教育委員会の話では、
@巻物は、洋紙(西洋紙)である。そっか、、洋紙と和紙の区別もつかなかったのか…。
A勘定掛 幡野三郎光照 勘定掛は、秀吉の時代にはない役職である。
B多田銀山では、金が取れない。
文化15年(1818)に道路普請の最中、土の中から炭にくるまって出てきた金鶏ということです。
雄は長さ7.5cm、高さ3cm、雌は長さ86.3cmあり、雌に「山」、雄には「神」の文字が 刻んであります。
これは、炭焼き藤太の金鶏伝説である「藤太黄金にて鶏一つがいを造り山に埋め山の神を祭りしとて、そこを●●という、時々鶏の声あり」を裏付けるものとされています。
※ネットにあまり引っかからないので、念のため発見場所を伏せておきます。
みんなのイメージ
奥州藤原氏を滅ぼしたときに源頼朝からもらったという結城朝光の埋蔵金。
その額1兆円。この埋蔵金は、主に砂金だといわれています。
結城家の埋蔵金で有名なのは、金光寺の山門の梁に彫られた三種の和歌です。
2009年に私が訪れた時には、心無い人に削られていて、その後、復刻していないようです。
和歌は3つですが、そのほか山門の柱などに文字が刻まれています。
三種の和歌を解き明かすと、埋蔵場所がわかるとされていて、
@ あやめさく水にうつろうかきつばた いろはかはらぬ
花のかんばし
A きの苧かふゆうもんにさくはなも みどりのこす万代
のたね
B こふやうにふれてからまるうつ若葉つゆのなごりは
すへの世までも
結城の埋蔵金に熱心だった女史が、「たからは なかくきのしろに うつす」と解読しました。
そうなると、畠山清行氏等の会之田城とはいったい何だったのでしょうか。
番組内で、金光寺の岡本住職曰く、幕末に勝海舟と幕臣が、金光寺から金塊を掘り出して江戸城へもっていったとのことです。
私が岡本住職から直接聞いた話では、勝海舟と幕臣が、金光寺の三種の和歌が彫られた山門の下から、3,000両を掘り出し持って行ったと語っていました。
岡本住職の話は10年た経っても話がぶれないので、本当に何らかの事件があったのかもしれません。
しかし、山門の下から千両箱が見つかると、三種の和歌は中久喜城と無関係だったことになってしまいます。
今回、八重野充弘氏が目指す埋蔵金は、武田信玄の埋蔵金
目指す場所は、甲斐の国と駿河の国の県境(詳しい場所は教えられないとのナレーション。)
樹海にある武田氏の埋蔵金は、縛りがあって、
@ 林道から外れて探してはいけない
A 掘ってはいけない
B 現状を回復する
日本でレジャーハンターを公言する、埋蔵金の第一人者の八重野充弘氏が登場。
日本にもただ一人存在するとのナレーションですが、私にNHKからオファーがあったときに、「私もトレジャーハンターです。」と告げたのですがスルーされています。
八重野充弘氏は、樹海にあると云われている武田の埋蔵金を探しに行きます。
この樹海での捜索は、今も有志により行われていますので、八重野充弘氏のサイトを見てください。
番組では、越前福井藩の中根雪江の日記を紹介しています。
中根雪江は、「江戸城は明け渡しとなったが、帳面と金銭は一枚一文もなく、どこへ隠したのか不思議である。」と、日記につづっています。
これが、江戸城の御金蔵にお金がなかったの根拠となっています。
通説では、小栗上野介が持ち出したと云われていますが、歴史的に難しいと思います。
松平太郎が、金座・銀座から100万両を持ち出したとも云われています。
官軍が近づいてくるのはわかるはずですので、持ち出した持ち出さざるを得なかったのではないでしょうか。
番組では、万延二分金を紹介しています。
360万両は、千両箱3,600箱となり、総額35tとしています。
当時の陸送手段は、牛と馬です。運搬のルールも決まっていて、馬や牛の背に左右に振り分けなければなりません。
一頭当たり左右に二箱づつ釣るしても、900頭の牛馬が必要になり、とても現実的な数字ではありません。
万延二分金は約3gで、金の含有量は金22.82%の約0.7gの金しかありません。
35tの金22.82%は約8tで、千両箱800箱となり、牛馬200頭で運べますが200頭も現実的ではありません。
特に、街道は伝馬制で、宿場ごとに違う牛馬に載せ替えなければなりませんので、バレてしまいますね。
徳川埋蔵金というと、小栗上野介忠順が登場します。
小栗上野介は、徳川埋蔵金でおなじみの水野家のストーリーが発端です。
水野家のストーリーである甲府城からの24万両と、江戸城の御金蔵や大阪城からの17万両を分け、合計360万両とみるべきではないでしょうか。
さらに、通常と戦費を分けて考えるべきだとも思います。
実際に日露戦争まで紀州徳川藩が、17万両(小法馬金300個)持っていました。武家として生活費だけではなくいざという時の資金と考えるのが適当です。いざという時の資金は、紀州徳川藩に限った話でもないと思います。
そ考えられるのが、法馬金です。
金の純度は95%前後。1個約375g万延小判換算で1個で約575両になります。
日本銀行に吉、桐/亀/甲/桐、定の四種類あり、そのほかもう一種類あるメージャーな代物です。
日本銀行に保管されている小法馬金は、日露戦争の折、主に尾張徳川家から買い取ったもので、吉154個、桐40個、亀甲桐20個、定86個の合計300個、合計112.5kg 万延小判換算で172,500両です。
もし、360万両なら、1枚3gの小判のうち22.82%で金821,520g、821,520g÷375g=小法馬金2,1900個
千両箱自体の重さが約4kg。6kgの金を入れて10kgとする
と、6,000g÷375g=16個、2,190個÷16個=136箱
傳馬船の排水量400kgとすると1隻40箱を積んで3艘で水
運が可能で、136箱÷一頭4箱とすると34頭で陸運が可能です。
都市伝説で出てくる「かごめ」。六芒星もあれば五芒星で研究されている方もいらっしゃいますが、衛星視点の地図の縮尺を変えて線を好きなように引いている方をよく見かけます。
江戸城から日光東照宮までをカバーする25万分1の地図だけでも、線や点が1mmズレれば実測2.5kmずれてしまいます。
正確な六芒星または五芒星を書くと、好きな地点が何kmもずれてしまうためか、いびつな六芒星や五芒星のままにしています。
都市伝説で出てくる「かごめ」から、日光東照宮の墓(宝塔)の下にあるという方もいらっしゃいます。
宝塔は元和8年(1622)創建され、寛永18年(1641)に石造に改められ、天和3年(1683)の地震での倒壊後、現在の唐銅製(金・銀・銅の合金)になっています。
宝塔の下には、徳川家康の遺体が収められています。埋蔵金を隠すとなると、家康の遺体の下となります。
他の将軍の墓を発掘調査しても、黄金とともに葬られている墓はないことから、たとえ家康であっても質素なのではないでしょうか。
ピラミッドと混同しているのではないでしょうか。
また鶴と亀は、宝塔の前の銅製の置物のことを指すと主張する方がいらっしゃいますが、あの置物は三具足(みつぐそく)といい、1643年、第5回目の朝鮮通信使朝鮮から贈られたものですが、1812年の火災(別当寺大楽院からの出火)で東照宮の三具足は焼失し、日本で造り直したと伝わっているせいか、日光東照宮に朝鮮通信使の説明はありません。オリジナルじゃないから書けないのでしょうか。
大切な埋蔵金のありかを朝鮮からもらい物を目印に利用するでしょうか。
この焼失した三具足のオリジナルが九州に残っています。このお寺は天海大僧正でお馴染みの天台宗です。
また三具足は、真宗大谷派の仏具でもあります。Amazonで買えますので、ご自宅を埋蔵場所にしたい方は、ぜひお買い求めください。
カゴメや六芒星、五芒星から何かを導き出したいのであれば、私なら奥羽越列藩同盟の旗印を主張します。
奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の慶応4年/明治元年(1868)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州25藩)・出羽国(羽州)および越後国(越州6藩)の反維新政府的攻守同盟です。
この奥羽越列藩同盟の戦略として、wikiに「薩長軍の排除後、南下し関東方面に侵攻し、江戸城を押さえる」と書かれていますが、出典が見つからないのでわかる方教えてください。
そうなると、奥羽越列藩同盟関東への侵入口は、まさに赤城山西山麓となり、関東の入り口である前橋城を橋頭保(前
進基地)にする戦略だったかもしれません。
前橋城をいち早く拠点とするべく、財宝を前橋城の後方へ 出典:八重野ふるさと福島
隠したかもしれません。
ちなみに、奥羽越列藩同盟でも磐城平藩(12万石)は7万両を相馬中村藩(6万石)は1万両を新政府軍に献納しています。みんな持っているんですね。徳川幕府の蓄えが0両というのがいかにナンセンスかがわかります。
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