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<あのTV番組までの経緯>
明治から今日まで百年を超える長い年月、私財を投げ打って徳川埋蔵金の発掘事業にあたってきた水野家。
発掘事業の創始者である水野智義氏は、由緒ある旗本の家に生まれ、薩長との戦いで各地を転戦したといいます。
江戸時代が終焉した後、幕府の勘定吟味役という要人だった中島蔵人は、駒込で隠れるように暮らしていました。
中島蔵人は臨終の際に水野智義氏を呼び寄せ、水野智義氏に徳川埋蔵金の事実を打ち明けます。
日本橋で商売に成功した水野智義氏は、その豊富な財力をもって埋蔵金発掘を試みますが、当初は赤城山ではなく榛名山を探していました。
榛名山での発掘中に、埋蔵金のありかは赤城山であるということを耳にし、赤城山に人生を賭ける決心をします。
水野智義氏31歳、明治16年のことでした。
水野友義は、この財宝はもともと個人の持てるような性質の物ではなく、発掘されたら全日本人のために貢献するとした高い理想を抱いて発掘に取り掛かります。
豊富な財力で何十人もの労働者を雇い、調査と研究を重ねながら発掘事業を続けていましたが、掘り出すことなくお亡くなりになりました。
その後、発掘事業は、長男の水野義治氏、二男の愛三郎氏へと継承されていき、発掘事業及び調査・研究は、水野愛三郎氏の子息である水野智之氏が引き継ぎ、同時に水野智義氏の理想も受け継ぎます。
「断言します。埋蔵金は水野家以外出ません。」と、水野智之氏は、「あたえられるか否か」で語っています。
そんな水野智之氏も2011年7月にお亡くなりになりました。
<埋蔵金ブームを巻き起こしたTV番組>
TBS『ギミア・ぶれいく』という番組で、コピーライターである糸井重里氏がリーダーとなって1990年から1995年にわたり、水野家が埋蔵場所だと示した場所を掘りました。
毎回高視聴率を叩き出した人気番組となり、幼い165もこの番組をドキドキしながら見ていました。
土木番組というように、何台ものシャベルカーを使って、幅は約100m、最深部は約60mほどまで掘り進みましたが、発見には至りませんでした。
TBS以外も埋蔵金番組を放送し、場所を変え探査方法を変えて取り組みましたが、どれも発見には至っていませんが、TV局による発掘作業は近年まで続いています。
【三枚の銅板のうち 謎文】
甲乙丙 一八六など、謎の文字が書かれた銅板
右、一ニト記シタルハ方度足斟ノ両用トス と、書かれていることから、水野家は、甲(きのえ)=東と解釈し、一八六を歩数または尺数として、源次郎の井戸を中心に探索を開始しました。
165は、水野家のものとは違う銅板の写しを所有しています。
そのほかの銅板の写しも存在しますが、いったいどれが本物かはわかりません。
【三枚の銅板のうち 絵地図】
左上に「上毛赤城原野 字津久田原云フ」と書かれており、赤城の津久田原の地図だと思われます。
水野智之氏の著書等では、水野家がこの絵地図を元に探索したという記述は一切出てこず、赤城で似たような地形が見つからなかったのか、謎文を有力視し続けたようです。
絵図の中に「中」と書かれた部分や「○」、木を連想させる「▲」などが書かれています。
【三枚の銅板のうち 方位図】
「子=北」「牛=南」などを見る限り、「中」を中心とした方位図と思われるものです。
甲の下に「△」戌の下に「○」などが書かれており、「△○」のもつ意味は不明ですが、絵地図にも「中」があることから、絵地図のより詳細な埋蔵場所を示しているものと思われます。
【黄金の家康像】
黄金の家康像は、像の材質等の調査をすると持ち出されたまま一旦は行方不明となり、真鍮の家康像が手元に返ってきたとされていますが、再度持ち出されて行方不明となっています。
この写真では、黄金なのか、真鍮なのかはわかりません。
家康像の現物を見たという複数人の証言では、綺麗な像だったということでは一致してはいますが、黄金なのか真鍮なのかは不明です。
165の聞き込みでは、緑青(ろくしょう、銅のサビ)が出ていたという証言を得ています。ただ、銅像の高さが証言によってまちまちで、約10cmほどから約20cmまでありますが、TBSの番組内で高さ約10cmほどのレプリカの像を前に、糸井重里氏が話をしているので、高さ約10cmが正解だと思われます。
黄金の家康像の写真は複数枚存在します。
【燈明皿】
黄金の家康像と一緒に源次郎の井戸から発見されたと伝わっています。
灯明皿には、「子ニ四芝下炭」など、謎の文が刻まれていることから、三枚の銅板とリンクしていると思われますが、燈明皿が検証されたことは皆無で、詳細は不明です。この燈明皿も徳川家康像と共に行方不明になっています。
165の聞き込みで、水野義治氏が人にあげたということですが、何処の誰かまではわかっていません。
【カラー化】
AIで家康像と灯明皿をカラー化しました。
畠山清行氏の日本の埋蔵金(下)に、「壺の中には、直径五寸の銅の皿を伏せた上に、約三寸五分の東照権現の黄金像がのせてあったのである。」と書かれています。
AIカラー化が正確だとは言えませんが、家康像の画像を見ると家康像本体と台座の材質が違うようなので、灯明皿の上にのせられている家康像の写真ではないようです。
また、カラー化された灯明皿と銅塊を比べると黄色っぽい気がします。
【萬四目上覚之帳(よろずしめあげおぼえのちょう)】
慶応2年1月から10月の間、前橋藩士・松村竹二郎と名乗る人物を首領とする武士数十人が、領民ら100人以上を動員して津久田原で何らかの作業をしていたと伝わっています。
村松竹次郎は、資材の調達を村人の角田源次郎に委ねていました。
角田源次郎は、村松竹二郎らの用いた調達品の台帳として「萬四目上覚之帳」を作成したとされています。
初代水野智義氏は、この台帳から赤城山で何かが行われたと確証したようです。
【大義兵法秘図書(たいぎへいほうのひずしょ)】
赤城山の埋蔵金を守っているとされる児玉惣平が、水野智義氏に手渡したとされる巻物。明治24年(1891)に没するまでの間に御用金の隠匿の経緯を書き残したと伝わっています。
児玉拡平が水野智義氏に語ったところによると、この御用金計画には、小栗上野介忠順(幕府勘定奉行)、林鶴梁(幕府代官・学者)、林国太郎(林鶴梁の長男)、羽倉鋼三郎(林鶴梁の次男)、中島蔵人(幕府勘定吟味役)柴田監物(幕府甲府城代 中島蔵人の上司)、雲井龍雄(元米沢藩士)、屋代昇平(元前橋藩士)、大忍坊温海(だいしんぼううんかい、僧侶)、桜正坊(おうしんぼう、僧侶)といった人物が関係していると伝えたそうです。
水野家は、この大義兵法秘図書を大変大事にしており、TV番組内でも全文が公開されたことはなく、一部解読した文章のみを伝えています。
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