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慈眼院結城家御廟
かつては小塙・乗国寺末の福聚山慈眼院という曹洞宗寺院の境内でした。
慈眼院自体は、十六代政勝が、十七代明朝(あきとも)に先立たれた際に創建しました。
畠山清行氏の日本の埋蔵金上巻では、この慈眼院結城家御廟のいわれについて、次のように記しています。
一、結城十六代政勝公隠居の折に建てたとするもの
一、結城十八代秀康は国替えの折り、先祖の菩提を 弔うために建てたとする説。
一、代官となった伊奈備前守忠次が、領民統治政策 上の人気とりと結城氏の遺徳をしのんで建てた とするもの。
この説明板にも畠山氏と同じ説が書かれていますが、結局誰が墓を集めたのかがわからない説明書きになっています。
左:畠山清行氏の著書「日本の埋蔵金上巻に掲載されている八尺堂観音
右:2018.5.19に撮影した八尺堂観音(日本の埋蔵金に似せるため画像を傾けた)
畠山清行氏の著書では、「慈眼院は、御廟および八尺堂の北、現在畠(畑)になっているところにあった。」と書かれています。
横幅八尺(八尺=240cm余り)の八尺だろうと思います。
中は空っぽで、観音様の写真が2枚飾られていました。
都市伝説に登場する八尺様ではありません。
左:畠山清行氏の著書「眠ったままの埋蔵金」に掲載されている御廟
右:165が撮影した御廟
畠山清行氏が取材した当時は、原っぱの中にあったことがわかります。
現在の御廟の横に、後世になってから植樹されたと思う銀杏の大木がありましたが、根が張り出して御廟の一部がが崩れていました。
畠山清行氏の著書「日本の埋蔵金上巻」に、「この御廟をほったものがいる。掘った場所は二ヵ所で、(割愛)土塁の外側の西北の隅だった。(割愛)もう一ヵ所は、御廟の中へ入った左側。香台と立ち並ぶ墓の中間で、頃は明治になって間もなくだった。(割愛)」
現場をみると、敷き詰められた大谷石の大きさも形状も違うので、御廟に入った左奥だと思われます。
また、お香台のあたりまで敷石が乱れています。
入って左側になると、二代目から十七代目の墓(五輪塔)の前になります。
何を根拠に掘ったのかが気になります。
写真を撮影したのが2018年で、その後、周囲の雑草やイチョウの木が切り倒されて整備されたようで、本来の姿に戻っているようですので、気候が良くなったら訪れてみたいと思います。
最新の画像をパクろうと思ったのですが、皆さん埋蔵金視点で写真を撮っていないので、古い画像を使っています。
御廟の中をよく観察すると、お香台周辺も敷石が乱れていますので、廟全体を掘ったのではないでしょうか。
いったい、何を根拠にしたんどえしょうか。
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