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結城氏の埋蔵金

<日本の三大埋蔵金>
 豊臣秀吉の埋蔵金、徳川の埋蔵金、そしてこの結城の埋蔵金と言われており、三大とは埋蔵量になります。
 結城家の祖、結城朝光(ともみつ)は、源頼朝に忠勤して奥州藤原氏を征伐した折、奥州藤原氏から略奪した莫大な砂金を恩賞として受け取ったとされ、結城朝光を祖とする結城家は、以後、富裕を謳われ、実録36万石にもかかわらず「結城百万石」と呼ばれていました。
 十七代晴朝(はるとも)の代になって、豊臣秀吉の斡旋で徳川家康の実子である秀康(結城秀康)を養子に迎えることになります。
 結城晴朝は、徳川家康が結城家の財産を奪うつもりだと思い、その財宝を埋蔵したと言われています。
 埋蔵場所の候補地は、「結城城址」「中久喜城」「会之田城」だと伝わっており、実際に発掘した人たちがいます。
 金光寺の山門の梁に浮彫で掘られた三種の和歌を解くと、埋蔵金のありかがわかるなどと、まことしやかに囁かれ、実際にこの解読に何人もチャレンジしています。
 女性の研究家が、三種の和歌を解いたとどっかに書いてありましたが、その後どうなったかはわかりません。
 金光寺のどこかに埋蔵金が隠されているという説もありますが、ん〜って感じです。
 金光寺の三種の和歌を否定するつもりはありませんが、結城晴朝は慶長19年(1614)7月20日に越前国北の庄または中久喜城にて81歳で死去されたと伝わっていますので、金光寺に隠したとは思えません。

<三種の和歌>
 きの苧かふゆうもんにさくはなも みどりのこす万代のたね
 こふやうにふれてからまるうつ若葉 つゆのなごりはすへの世までも
 あやめさく水にうつろうかきつばた いろはかはらぬ花のかんばし

埋蔵金の発見談

 この埋蔵金発掘が最初にくわだてられたのは、享保(1716〜1735)で、場所は結城城内とだけで正確にはわかりません。
 二回目の発掘は、これも八代将軍吉宗の元文三年三月で、結城城下から 二里ほど離れた下野国吉田村的場の会之田城址を掘っています。
 この発掘には、江戸町奉行大岡越前守忠相が現地に出張って指導したと伝わっていますが、土砂崩れで十一人の死者を出して中止になったとも伝わっています。
 下の絵は、発見を伝える瓦版で安政6年(1860)と書かれています。
 かの藤岡屋由蔵もこの埋蔵金のことに触れているのが大変興味深いです。

埋蔵金発見

出典:1859年(安政6)に江戸で発行された結城埋蔵金発見のかわら版 (早稲田大学演劇博物館蔵) 結城市・結城市観光協会発行「絵図ゆうき」

野州本吉田村金堀一件

野州本吉田村金堀一件

 上記の瓦版より25年早い天保5年(1835)に書かれた「野州本吉田村金堀一件」という古文書。
 内容は、公儀への発掘許可願いです。
 私たちは結城家の元家臣で、天明2年(1782)に掘ろうとしたけど、そのときは公儀から許可が出なかった。
 どこぞこに竿金九億八百本などいっぱい埋まっているので、あーしてこーして掘り出して、穴もしっかり埋めるから今回は掘らしてほしいという内容。
 この許可願いで掘り出されたのかまではわかりません。



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