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<修二郎の埋蔵金>
徳川家が関係したと言われる徳川埋蔵金のような埋蔵金ではなく、武田家が関係したと伝わっている埋蔵金があります。。
武田家の埋蔵金とされているのは大きく二つあり、一つは本能寺の変の直後、徳川家康と供に京都から逃げ出した武田家臣の穴山梅雪が埋めた(移した)とされる武田信玄の埋蔵金。
二つ目は、これからご紹介する武田家の管轄下にあった黒川金山で働く金山衆が関係したのではないかと言われる「高橋修二郎の埋蔵金」である。
明治四十年頃のある秋の朝、柳沢川と龍喰川の合流する「花魁淵」の近くの山中で、東京の日本橋小伝馬町のアサバ写真館館主、高橋修二郎の滑落死体が、 塩山一之瀬高橋の二ノ瀬の宇澤某により発見された。
高橋修二郎の遺物から、5分ほど(約15mm)の丸さで、長さ七、八寸(210mm〜230mm)の山吹色の棒が十本と、ひどく雨にたたかれ、文字も部分々々消えているが、高橋修二郎が書いた次の内容のメモが手帳に残されていた。
高橋(十字不明)に
腕の形(九字不明)る
大本(三字不明)右三本(八字不明)
山(五字不明)あり穴は大きな岩の
左からみ(七字不明)る
木で(六字不明)本
棒は大で(六字不明)十枚
のべ板(四字不明)二つの穴
にもま(五字不明)ある
右の(三字不明)口は川につ
いて下って三つ目の(一字不明)
のほらあなから入る (出典畠山清行 日本の埋蔵金)
畠山清行氏は、著書の中で、「柳沢川と龍喰川の合流する「花魁淵」の近くの山中」と書いていまず。
下の地図を見ていただくとわかるのですが、柳沢川と合流するのは一之瀬川であり、柳沢川と一之瀬川の合流地点に「花魁淵」があります。明治時代の古地図にも一ノ瀬川と記載されています。
龍喰川と合流するのは一之瀬川ですが、合流地点付近に「花魁淵」はありません。
合流地点から遠目で花魁淵はありますが、花魁淵から龍喰川と一之瀬川の合流地点まで、九十九折な林道を車で約20分の道のりは近いとは言えません。
また、一ノ瀬川に沿う林道は、昭和の高度経済成長時に作られたもので、明治時代はもちろんのこと、畠山清行氏が著書に書いた時には、「左側にある犬切峠を越えなくてはなりません。(民宿石楠花談)」
明治時代に、藤尾山の斜面を登るルートの仕事道はありまが、川からだいぶ離れた位置でした。
<考査> 畠山氏が、@柳沢川と一之瀬川の合流を誤って、柳沢川と龍喰川の合流と書いたのか?
A一之瀬川と龍喰川の合流を誤って、柳沢川と龍喰川の合流と書いたのか?
龍喰川を探索する方がいらっしゃいます。
畠山清行氏の著書では、上記に書いた「柳沢川と龍喰川の合流(以下略)」の部分でしか龍喰川が登場しません。
龍喰金山や精錬場尾根など金に関係する名称や断崖絶壁から、畠山清行氏は高橋修二郎が滑落死というイメージが連想し、創作したのかもしれません。
この名称や滑落死のイメージをリセットすれば、柳沢川と合流する一ノ瀬川や高橋川でもいいはずなのに、なぜか皆さん龍喰川を目指しています。
出典:東京都水道局 東京都水道歴史館(https://www.suidorekishi.jp/)
※無断借用しています。この場でお詫びします。削除要請は、お手数ですがメールでお願いします。
HP作成上、小さい画像になっていますが、東京都水道局 東京都水道歴史館のデジタルアーカイブをご覧になれば拡大画像も確認できますし、写真の詳しい解説も載っています。
くしくもこの写真は、畠山清行氏の日本の埋蔵金における高橋修二郎の大正2年と合致してしまいます。
現在の龍喰川周辺や一ノ瀬川周辺はうっそうとした森の中で見通しも悪く、足を踏み外して滑落する可能性も高いですが、写真を見る限りでは一面のハゲ山で見通しはよさげです。
このようなハゲ山であれば、穴が開いていたら持ち出されているでしょう。
このような状態で高橋修二郎が埋蔵金を見つけたとするなら、穴の入口は何らかの方法で隠されていたと思うほうが自然です。
修二郎が残したといわれるメモの
腕の形(九字不明)る
大本(三字不明)右三本(八字不明)
を腕の形に曲がって生えている木に例える人や大本は誤植で大木だと言う人もいますが、写真を見る限り武田期からあるような大きな木があったとは思えません。
徳川埋蔵 大正時代 丹波山雲取方面の狼平荒廃地 大正2年 水源林の測量(甲州市一ノ瀬あたり)
徳川埋蔵 大菩薩嶺の北麓荒廃地 一ノ瀬付近
徳川埋蔵 大正11年 無立木地状態の笠取山付近 大正元年 落合集落 木は奥に1本のみだ
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