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平成6年に「徳川埋蔵金 総集編」を放送しました際に番組内で次の候補地として群馬県内の8か所を挙げ検証していきます。その八か所から3か所に絞って番組を構成しています。
放送当時、一部を除き見逃していた番組なので、大変ありがたいです。
tokugawamaizoukin番組内での資料 165の資料(転載禁止)
*糸井重里氏
糸井重里氏の株式会社ほぼ日(ほぼにち)が、東証マザーズに上場しました。
「徳川埋蔵金は東京証券取引所にあった!」今後は「くうねるあそぶ」などと、揶揄されてこともありました。
*望月昭治会長
現在は渋川市会議員としてご活躍中
*荒俣宏氏
中央線でお見かけしたけど大柄な人でした。
*高橋喜久雄氏
フジテレビの番組にも登場する徳川埋蔵金探索者の方です。
水野智義の上申書によると、埋められた御用金を守っていたとされる児玉惣兵衛が、御用金は上野国(現群馬県)八か所に埋蔵されたと語ったと伝わっています。
番組内で、八か所の候補地を挙げています。
@ 榛名神社の宿坊である般若坊:見取り図に「宝」と書かれた場所を発見
A 倉賀野:小栗が江戸から家財道具を船に乗せ倉賀野まで運んだ
B 安中(風戸峠):小栗一行が休憩した地点
C 鬼石(多野郡鬼石町):鬼石は小栗の領地で、そこの桜山の頂上に謎の石碑がある
D 猿ヶ京:猿ヶ京の関所のほど近い場所から埋蔵金の歌とされる「あさひさすふたまたうつぎのねもとにある」と
刻まれた石板が見つかった
E 赤城山
F 月夜野
G 根利:大義兵法秘図書にでてくる唯一の地名
まずは、鬼石
鬼石の手前、群馬県藤岡市小林は、かつて小栗の領地だったところです。
鬼石の桜山のアンノキ沢に宝が埋まっているという伝説が存在しています。
今まで数多くの人がアンノキ沢周辺を探しましたが、発見されていません。
埋蔵場所のヒントだとして桜山頂上に虚空菩薩の碑が立っていますが、時代が違うため埋蔵金と関係がないとされ、鬼石は×
次に倉賀野
倉賀野は、小栗が江戸から船に乗せて運んだ家財を受け取る地でした。
倉賀野に埋蔵金があると主張する、地元郷土史愛好家たちのグループがあります。(現在不明)
実際に掘っているらしいですが、まだ発見には至っていません。
倉賀野は、官軍も徹底的に探したが見つからなかったとされ、一日や二日で埋蔵金を隠せるとも思えないということことから、倉賀野は×
次に安中
「小栗一行は、わざわざ遠回りになる安中の風戸峠を越えたとされていますが、小栗日記には風戸峠を通ったとは一言も書かれていません。」と語るのは、小栗上野介研究家の小板橋良平氏
1995年に風戸峠を掘った人がいたそうですが、発見されていません。
否定するもう一つの理由として、小栗に関する様々な文献を見てきた小板橋良平氏は、「小栗一行が通ったルートから所要時間を考えても風戸峠は通っていない。」とのことから、安中は×
小板橋良平氏は、「小栗上野介一族の悲劇」という著書を書いています。HPの埋蔵金関係本の中でも紹介させていただいています。
次に榛名山
榛名山は、水野智義が初めに掘っていた場所とされています。
上申書には、榛名山で元双永寺の住職と会って、埋蔵金の話を聞いたと上申書に書かれています。
番組の調査で、榛名山にある榛名神社に参拝する人が泊まる宿坊である般若坊その般若坊の見取り図に「寶(宝)」と朱書きされた場所が見つかりました。
般若坊の見取り図に宝と書かれていた場所を探してみると、榛名山の急斜面でした。
望月建設の方々が、一生懸命に宝の場所を特定しようと探しましたが、見つかりませんでした。
次に猿ヶ京
猿ヶ京は、佐渡金山から金を運ぶルートであり、幕府直轄の関所がありました。
猿ヶ京と言えば、ホテル関所のオーナーが、大々的に発掘者を募集したことでも有名。一般人にスコップを持たせ、出れば分け前を上げるとのことだったが、発見できなかった。ホテル関所はもうありません。
関所の裏手の神明神社から埋蔵金の歌とされる「あさひさすふたまたうつぎのねもとにある」と刻まれた石板が見つかったそうです。石板は行方不明となっています。
その歌を信じて戦後30年余り大々的に掘りましたが、何も出てきていません。
これがホテル関所の埋蔵金ツアーの話なのかな? 猿ヶ京も×
そもそも猿ヶ京が注目されたのは、水野家の三枚の銅板を占い師が解読した結果、「さるがけう 十二」と解読されたからでした。
次に利根村
荒俣宏氏は、「根利は元々練りであり、練りという言葉は軍事基地を意味しており、練馬と同じ軍馬の調教場所であった可能性もある。」と語っています。また、「錬金術の金属を錬るの意味もあり、鉱山がある由縁である。」とも語っています。
根利は、会津街道と日光裏街道が交差する交通の要所でもあったことから、埋蔵場所の有力候補地となりました。
右 現地を訪れる荒俣宏氏
今の風景と合成してみました。 ちょっと角度がずれていますが、後ろの建物が同じことがわかります。
165も根利の近所に前線基地を設けています。
番組内で香港の風水師を尋ねて埋蔵場所を占ってもらっています。
風水師の占った山に登ると、頂上に朽ち果てた金比羅様の社がありました。
金比羅様というと香川県の金刀比羅宮を思い出し、海上交通の神様だと思っていたら、祭神は大物主は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めているそうです。
番組で掘り返すことなく、紹介して終了しました。
8か所目の候補地が、昭和村長者久保
TBSが長者久保を扱ったのは、放送当時の記憶が残っています。
長者久保は、2016年末にフジテレビが掘ったので、みなさんも記憶していると思います。
明治元年、小栗を追った官軍は、沼田に逗留。片品川を挟んだ長者久保を一年間占拠していたそうです。
法政大学文学部史学研究室 村上直 教授は、1年間駐在していたのはかなり異常だと言っています。怪しいのは、官軍の記録で長者久保一帯だけ明治五年以前の記録がないという新事実が判明しています。
江戸時代からここに住まいを構える方(右写真)の話によると、代々埋蔵金に関わる話が残っていて、「おやじが分銅金があるっていうんですよ。これぐらいのどっかにあるんですよ」と語っています。
ここでは法馬金伝説が残っています。
この辺一帯の庄屋であった松井勘助は、当時極めて稀な伏見稲荷の最高位正一位を授かっていた人物でした。
証文には、文政四年七月(1824年)と書いてあります。
埋蔵金が埋められたとされるのが慶応三年(1867年)ですから、43年の開きがあります。
京都伏見稲荷は、林鶴梁の次男の義理の父である羽倉かんどう?が務めていたとされ、羽倉かんどうは上州利根郡大倉蘭(あららぎ)新田村を領地としていたそうです。
新田村は、長者久保に近く、さらに長者久保を見下ろすかのように裏山の頂上には大きな岩があり、明治22年ごろまでこの岩の上から村を監視していた「山犬天狗」という謎の人物がいたということです。
この大倉蘭新田から今回の発掘現場まで直線にして約7km。 近辺の高い山の標高は約600m。とても監視できるとは思えないのですがいかがでしょうか。
徳川埋蔵金 ん?どこかで見た祠
松井勘助は、4kmほど離れた所の神社の鳥居を奉納しています。
その神社の名前は金山宮。その同じ敷地内には、謎の銅板三枚が発見されたという双永寺があります。
長者久保は、双永寺とつながっていました。
今回の発掘場所の祠と双永寺は、直線で約7.7km離れています。神社の鳥居を奉納したことは事実でしょうが、距離が違うのは大丈夫なのでしょうか。
長者久保説を唱えるのは、高橋喜久雄さんです。
地中レーダーで、強く反応が出た母屋の下を掘ります。
掘るためには、母屋を取り壊さなければなりません。
重機が母屋を取り壊すシーンで、祠が見えています。祠の真下を掘っていることがわかります。
結局、今回の発掘では、物証すら何もでなく敗北。
赤城のほうがワイン瓶や縄ばしごの針金等が出土しただけマシだったかもしれません。
反省会の糸井氏の表情が険しい。高橋喜久雄氏も敗北(1回目)
高橋喜久雄氏が、斜面にある稲荷の祠の周辺が気になるため掘りたいと言い出します。
さらに高橋喜久雄氏は、斜面に横穴があるはずだと主張。 研究結果によほどの自信があるのでしょう。
赤城山(長者久保)×
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