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徳川埋蔵金が大好きなTBSの番組です。
鮮明で良質な動画をアップしてくださった方にこの場をお借りして感謝を申し上げます。
諸説ありでは、徳川埋蔵金のありかとして
@群馬県赤城山西山麓 長者久保
A山梨県舂米
B北海道江差
の三か所をあげています。
コメンテーターは、夢枕獏氏
徳川埋蔵金のコメンテーターといえば、世界妖怪協会会員の肩書を持つ荒俣宏氏ですが、徳川埋蔵金をテーマにした「明治大帝の密使」を連載している夢枕氏を起用しています。
説ありで紹介した埋蔵金伝説
関東に赤丸が3か所あり、A結城晴朝の「黄金」としているところは、さすがTBSです。
結城の左は赤城山だろうが、その下の都内?の埋蔵金はなにを指しているのか気になる。
同じようにBは大菩薩峠周辺で、左下は今回の舂米だと思うが、左上はなんだろう?
とにかく、有名武将などの埋蔵金は数多く存在している。
見つかった埋蔵金として、昭和38年日清オイリオの本社社屋建設中(大成建設)に天保小判が1,900枚、二朱金78,000枚を挙げています。
同地にあった鹿島清兵衛の埋蔵金と言われ、総額10億円。と解説。
正確には、天保小判は1,900枚、二朱金78,389枚が銅箱に入っていました。
一両が四朱なので、合計11,698両二分二朱となります。
ここで、夢枕獏氏は、「偶然に見つかったもので、地図があってそれを調べて見つかったものではない」とのコメント
埋蔵金は、地図などの謎解きがなければ、埋蔵金とは言えないのか?なぜ口伝はだめなのか?この見識の違いが、土中
から小判が発見されても埋蔵金は見つかっていないと言われるる由縁ではないでしょうか。
番組内で紹介した鹿島清兵衛の埋蔵金は、子孫が家の庭に小判が埋まっているという祖母の言葉に従って、明治二十年ごろ、蔵の敷石の下の穴ぐらを捜した結果、祖父が残した小判を当時の金で15万円分(5億7千万円)を発見しています。(出典:1963.アサヒグラフ 鹿島清兵衛の弟の話)
鹿島清兵衛は、口伝で見つかっているのだから、埋蔵金として紹介するのは矛盾していると思いますよ?
慶応4年(1868)4月 江戸城無血開城のおり、新政府軍が幕府の御用金を接収しようとしたが御金蔵は空っぽだった。
消えた御用金の推定額は400万両(約3,000億円)で、新政府軍は幕府がどこかに隠したと疑った。
小栗上野介は、江戸城開城の3か月前に辞職。
正確には、勘定奉行を罷免、勤仕並寄合を申し渡されるがこれを辞退して、上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)で隠居する。
隠居の際、江戸から大量の荷物を運搬していたことがが、小栗が御用金を隠したといわれる由縁となっています。
明治23年に発見された黄金の家康像の写真。
別角度から数枚撮影されたものが現存していますが、この写真は最もポピュラーなものです。
埋蔵には、八問遁甲の秘術が使われていると言われたことから、諸葛孔明像だとか言われたりしましたが、水野智義氏の「上申書」に家康公の銅像と書かれています。
また、黄金とか言われていましたが、手に取って見たことがある人の話では緑青があったということです。
後に真鍮とすり替えられたといいますから、緑青がある家康像はオリジナルだったのですね。
昭和10年日本陸軍が動員され徳川埋蔵金を捜索
師団(1万人から2万人)は大げさだと思うので、大隊(300から1000人)規模ではないだろうか。
陸軍がかかわったことは、事実のようです。
この陸軍がかかわって掘った穴が、「あるとしか言えない」で見つかった穴ではないかとされています。
TBSの番組や著書でも軍隊の発掘に触れていますが、在郷軍人によるものと書かれている書物もあります。
トレジャーハンターの第一人者 埋蔵金歴40年の八重野充弘氏
165は、八重氏にお会いしたことがあり、埋蔵金発掘の苦労話もしていただきました。
身長が高いのにびっくりしました。温和で物腰が柔らかい方です。
天草四郎の秘宝、畠山清行氏と掘った上州永井宿、徳川埋蔵金を捜して片品村の鉱山跡など 多くの実績を持つ方です。
著書も多数あります。
八重野氏は、西へは沼田街道を通って会津や日光へ、東には三国街道を通って新潟へと交通の要所でもあり、守りやすくて逃げやすい場所として埋蔵地の候補としてあげています。
赤城山西麓といえばこの人! トレジャーハンティング歴44年の高橋喜久雄氏。
高橋喜久雄氏は、徳川埋蔵金だけに専念し、片品川岸壁をはじめ、いくつもの個所を掘っています。
かの糸井重里氏が手掛けたTBS徳川埋蔵金の流れである「新・徳川埋蔵金 上州八か所黄金 伝説」にも登場している方です。
1995年から長者久保で、TBSの番組(糸井氏時代、林氏時代)でもガッツリ掘ってるけどハズレています。
長者久保によほどの自信があるのでしょう。
根拠1
人里離れた山奥に、なぜか20本以上掘られた井戸 この多くの井戸のどれかに埋蔵金が隠されているのではないか。 根拠2
地主の高祖父が、「この山のどこかに大法馬金が埋めてある」と言った話がある。この大法馬金の拓本が、近所の旧家に残っている。このことから、井戸の中に隠されているのではないかと推測している。
根拠3
埋蔵金の在りかを示す古文書 んーー水野家の三枚の銅板の写しかぁ。反則負けですよ。
「多くの者が、この古文書の解読を試みたが、いまだ埋蔵金は発見されていない。」とのナレーション。
※大法馬金 縦33cm 幅60cm 重さ330kg
大法馬金を1/10にした小法馬金というのが現存しており、日銀の貨幣博物館に保管されています。
徳川埋蔵金 根拠1 井戸 根拠2 伝説
徳川埋蔵金 根拠3 古文書
高橋喜久雄氏は、絵地図や方位図に示された「中」の文字の地点が、この地にある正一位の伏見稲荷ではないかと推測しています。
諸説ありの収録日が不明ですが、平成28年10月12日放送のフジテレビ「世界の何だコレ!?ミステリーSP 伝説!徳川埋蔵金の今…暗号解読で新エリア」にこの祠が登場しました。
この諸説ありの放送日がが平成29年(2017年)12月16日ですから、掘った1年後にまだココだと言っていることになります。
八重野氏はTBSに出演しないないと思っていたんですが出るんですね。メインが高橋喜久雄氏だから出演したのでしょうか?
高橋喜久雄氏は、甲に書かれた186(歩数)を「中」を起点に行った先には、熊野十二社という山神があり、そのほか同様の解釈で乙、丙、丁など行った先々に石仏等があった。謎文には、甲乙・・・庚まであり、この十二社などにに対応する。とのことでした。(方位図の甲乙・・・庚の間にある艮、巽などの文字は無視)
そして、赤丸で囲まれた庚の位置に埋蔵金が埋まっているという。なんで?
面白いのは、私のサイトにある「平成28年10月12日 フジテレビ 世界の何だコレ!?ミステリー SP【伝説!徳川埋蔵金の今…暗号解読で新エリア】」の解説をご覧ください。
高橋喜久雄氏は、当初、歩数を甲-乙 乙-丙間の歩数としていましたが、稲荷の祠を中心に放射状の歩数に変わっています。 もしかしたら、高橋氏は、私のサイトを見ているのでしょうか?
見ていたら連絡をくださーい。待ってまーす!
そして、庚の位置の場所。
この場所の地中に井戸があり、その中に埋蔵金があるという。・・・すでに掘り返したんじゃないんですかね?
これで終了。掘ったりしません。
ここで、司会やコメンテーターの夢枕獏氏が、古文書自体の真贋を疑っていました。
夢枕獏氏は、「あの古文書は絵解きをすれば(古文書を解読すれば)、お宝が見つかりますよと、どこにも書いていない」と言う。さらに「小栗上野介が、遺書にここで宝の地図を捜しなさいと言ったものではない。」という。
古文書(三枚の銅板の写し)の真贋を疑うのは当然ですが、
宝の地図と書かれていたり、ドクロの印や×印があったりする地図があると思いますか?
埋蔵金ファンならだれもが知っている、山梨県増穂町舂米(つきよね)
探索者は、小栗上野介のひ孫だという河原次郎氏
ひ孫には変わらないが、小栗上野介が、歌(女中)に産ませた子孫だそうで、代々埋蔵金の秘密を受け継いできたそうです。
このあたりの知識が乏しいので、歌の存在など詳しい人がいたら教えてください。
山梨県甲府は、江戸城と一本の道(甲州街道)で結ばれた場所で、幕府に危機が迫ったときに 戦う場所の一つだとされています。甲州勝沼の戦い(慶応4年3月6日)
隠すことは十分考えられるそうです。
徳川 埋蔵金が埋まっているという30m四方の土地 家系図
【多田外記の遺言状】
多田外記は、小栗上野の家来だったということです。
多田外記は、埋蔵金の場所と埋蔵金を埋める際に出た犠牲者の追悼と後世に埋蔵金をつかってほしいと書物に書き記しているそうです。
多田外記は、実在したのだろうか?
関連サイト(滑ロ義ボーリング)を見ると、多田外記は後世の名で、多田徳次郎と名乗っていたそうですが、小栗最後の際の家臣に、多田徳次郎の名はありませんでした。
ただ、同じ多田姓の多田金之助(給人)という人が家臣にいるので、多田外記は関係者なのかもしれません。
給人(きゅうにん)とは、本来であれば、地方知行を与え
られる武士に栄誉的に与えた格付けが給人です。
しかし、この多田金之助は、二十歳の時に斬首されていますので、やはり関係者なのでしょう。
時代が明治から移り変わった昭和10年河原次郎氏の父が発掘を開始します。
多田外記の遺言状には、約90m下に埋まっていると書かれているそうです。90m?赤城山より深いですね。
すると、掘られた穴一面からおびただしい人骨が出てきたそうです。人骨は、働いていた人たちのものだと語る河原氏次郎氏 。地元では、五百人近い人足を切り殺したと伝わっているそうです。
河原氏のしゃべりっぷりを見ていると、人骨が大量に出土したのは真実っぽい感じがしました。しかし、人骨の下から埋蔵金は出てきていません。
時代も進み総掘りではなく、株式会社丸義ボーリングによるボーリング調査が開始されました。
2001年 ボウリングによる調査で、金のかけらを発見します。
確か、小判1枚と刀剣も見つかったとされていますが、番組では触れていません。
この金のかけらを山梨県工業技術センターに分析してもらったところ、小判の成分とほぼ一致していることが判明しました。
この時期、大阪城にあったとされる御用金18万両も行方不明なのです。
榎本武揚が、開陽丸に積み込んで、大阪から江戸に向けて出港しましたが、江戸城はすでに無血開城していたので、急遽蝦夷地に運んだとされています。
TBSの早丸の時にも登場した歴史研究家の山岸良二氏
山岸良二先生曰く、開陽丸が、軍用金もしくは幕府の御用金を船に積んだ可能性は非常に高いということです。
沈没船は埋蔵金ではないので、ここで終了。
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